大動脈弁下狭窄解除

1歳、7kgの大動脈弁下狭窄。乳児期に心室中隔欠損症の根治術を受けている。心室中隔欠損症はinletだったらしい。手術はC先生、J先生、僕。エコーでみたままの弁下狭窄。飛び出た組織を層にそって奇麗に切離。特に問題なく終了。

この手術だけは残念ながら2助手の場所からは全く見えない。たまにJ先生が、みるか〜と言ってみせてくれるのがありがたい。



胸部外科学会の締め切りは今日(5月15日)の正午!!

締め切りが22日まで延長されていました!!

時差を利用して、できるだけ混んでない時間に、そして出来るだけぎりぎりの演題登録を終えました。

抄録はかな〜り前に出来上がっていたのだけど、応募数の概算を知りたくてぎりぎりの時間に。日本時間の朝7時に1000番前後で登録。昨年の採択演題総数が約700題。これから5時間でどのくらい数が伸びるかわからないが、採択率はやっぱり50%くらいか?

そう思って2題を登録。どちらか一つは通って欲しい。お願いします!!採択してください!!と祈る気持ちで。

これが通らないと、企画している博多でみんなでわいわい集まってやる飲み会も開催できないわけで。。。。




いやいや。飲み会メインじゃないです。メインはお勉強です。もちろん。




でも、久しぶりに日本に帰って、いろんな人の話を聞きたいな〜。





















Fontan手術

5kgのDILV, TGA。NorwoodからGlennと順調に進み、今回Fontan手術。肺動脈がGlennに引っ張られるように狭窄。心房中隔も完全に閉鎖していた。手術はJ先生、C先生、僕。肺動脈は心膜パッチで広げ、そこにグラフトを吻合。窓付きのFontanで16mm。心房中隔も大きく開けた。手術場で抜管。特に問題無し。

J先生と閉創。手を下ろす間際に、J先生が、『この子が自分がNorwoodをしてFontanまで行き着いた初めての子』と教えてくれた。患者さんや親御さんにとってもFontanというは大きな目標だし、そこに行き着く達成感は大きいけど、外科医にとってもそれは同じ。もちろん僕はそんな経験ないけど、表にはださないけど、J先生、きっとすごく嬉しいだろうな〜。こちらもすごく嬉しくなって、いつも以上に奇麗に閉創した。



夢というもの。不思議なもの。



たまたまラジオから流れてきたこの曲を聴いたのは、中学生の頃だったかな。

夏の終わりの蒸し暑い日だった。思春期の独特な悶々とした青臭い気持ちのまま、クーラーもない部屋で、窓の外に広がる田んぼをぼんやりと眺める無為な毎日を過ごしてた。ラジオは意味もなく大音量でつけっぱなしになっていて、田舎の壁の少ない家で、壁の代わりをさせていたのかもしれない。つぶやくように語るこの歌は目の前の景色を変えてしまうほどの力があった。医師という職業を意識した最初の瞬間だった。


17歳、高校1年生から2年生になる春休み。ネパールのヒマラヤにほど近い小さな村に小さな診療所を建てるボランティアに参加した。僕の中学高校は変わった学校でNGOと協力して、希望する高校生をボランティアとして海外に送り出していた。休みの期間の数週間だけど、現地に足を運び、地元の人の家のようなところに寝起きし、現地の人と建物を立てたり井戸を掘ったり。

ネパールはその当時、王政から民主主義に移り変わろうとしている時で政治は落ち着かず、貧しい人も今以上に多かった。道ばたで死んでいく病気の人、やせこけたあかちゃん、死んだ子どもをこれみよがしに見せながら物乞いをするおばさん、河原で焼かれて次の世界に旅立っていく人たち。目に飛び込んでくる現実とは思えない光景やその人たちのもつ鼻が曲がりそうな匂い。そして、続けざまにもよおす吐き気、それらのものから目をそらす自分という存在の弱さ、卑劣さ。なぜかすごく悔しかったのだけははっきりと覚えている。貧しさというものが悪いのか、生まれてきた場所や時代のせいなのか、どうしてこんなに自分たちの世界とは違うのだろうか。

そして、それを目の前にして何もできないで吐き気を抑えるだけが精一杯の僕は一体何なのだろう。

その当時の僕はそれを説明する言葉を持たず、長い間、整理できない呆然とした気持ちの中にいた。そして、出した精一杯の答えが、自分で何か手を差し伸べることができるようになって、もう一回あそこに行きたい、そのために医師になろう、という事だったような気がする。


大学生になって志望を考える頃には、感染症を専門にしようと思っていた。実際にアフリカで医師として働かれていた先生が細菌学の教授で、その教室に用もないのに遊びに行った。アフリカの事、そこでの診療の事、そこで働かれて先生が臨床を捨て研究に移られた理由。早口の九州弁で熱く語ってくれた。『アフリカに行って、たくさんの人を助けたかもしれない。でもな、俺じゃないと助からない患者は一人もいなかった。元気じゃない人は減ったかもしれない。でもな、何も解決してない』その先生のこの一言が胸に突き刺さった。感染症をやろう、そして将来はアフリカや貧しい国に行こう、と思うたびにその一言が引っかかった。


僕は6年生の秋頃にようやく心臓外科医になることを決心した。アフリカで診療する夢とは対局にある最先端医療の代表のようなこの仕事を選んだのには理由があったのだけど、どこかで夢を捨てたような気がしていた。いつかはそんな事もしてみたいと夢を語る事もあったけど、心臓外科医ではそういうところで仕事をすることはできないとどこかで理解しようとしていた。




心臓外科医としての夢も出来た。そして、それを実現する力をつけるためにドイツに来た。


心臓先生がアフリカの自国で小児心臓手術をするプロジェクトを立ち上げ、思ってもみなかった事だけど、そのメンバーとして僕を選んでくれた。何度も消えかけては復活する不安定で不確実な話で、実現は無理なんじゃないかと、ちょっと諦めていたけど、心臓先生のご尽力でいよいよ具体的に動き始めた。12月という日取りも決まり、準備をはじめようとしている。心臓先生はアフリカではこうしろ、ああしろ、ここに注意しろ、と口うるさくなってきて、周りが心臓手術をやったことがない環境での手術のsimulationも熱を帯びてきた。




嬉しいしすごく楽しみ。だけど、それより何倍も不思議な気持ちでいる。




ずっと追いかけてきて、そして捨てようと思っても捨てきれなかった夢が向こうからやってきた。しかも、結構な勢いで。思いがけない時に。たまたま行った旅行先の交差点でまだ好きだったけど別れてしまった恋人にばったりぶつかるみたいな感じで。嬉しいけど、ちょっと申し訳ないような、恥ずかしいような。









諦めない夢はいつかは叶う。これは本当かもしれない。













僕もまだ、夢の途中だけど。同じように夢の途中にある人の元気になればいいな。



























心室中隔欠損症

5ヶ月、5kgの心室中隔欠損症。inlet typeの大きな欠損孔。Privateの患者さんなので、手術はA教授、C先生、僕。とにかく大きい穴。A教授はC先生や僕に見えやすいように、視野を展開して、ずっとコツを説明しながら手術をやってくれた。PrivateでA教授がこんなに簡単な手術をすることは、こんな感じでたまにすごく勉強になる。A教授は『簡単な心室中隔欠損だから、やってもらいたかったな。Privateだから。ごめんね』と何回か言っていた。自分でやるのも勉強になるけど、こういうのもすごく勉強になります。感謝です。






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遮断鉗子

Author:遮断鉗子
心臓外科医のブログです。
小児心臓外科医(35歳 心臓外科 10年目)のドイツ留学記です。
2010年7月からドイツに。

毎日の手術の事を中心に。ドイツビールの紹介もしていきます。

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